堺(さかい)・アートクルーズ


田村(たむら) (つとむ)

みんなへのメッセージ

混迷(こんめい)をきわめる明治(めいじ)時代(じだい)仏教会(ぶっきょうかい)(うれ)いて、「仏法(ぶっぽう)原点(げんてん)」「真実(しんじつ)仏典(ぶってん)」を(もと)め、鎖国(さこく)政策(せいさく)()っていたチベットに()けての(たび)決行(けっこう)、みごと成功(せいこう)させ「未知(みち)(くに)、チベットを世界(せかい)紹介(しょうかい)」したのが(さかい)出身(しゅっしん)河口(かわぐち)慧海(えかい)()なのです。 この立像(りつぞう)制作(せいさく)企画(きかく)は、(さかい)ライオンズクラブ創立(そうりつ)25周年(しゅうねん)記念(きねん)として1983(ねん)実現(じつげん)しました。記念(きねん)行事(ぎょうじ)趣旨(しゅし)(ぶん)には、(ほん)立像(りつぞう)が、慧海(えかい)()生誕(せいたん)()にもっとも(ちか)南海本線(なんかいほんせん)七道(しちどう)駅前(えきまえ)公園(こうえん)設置(せっち)されたことや、慧海(えかい)()御血縁(ごけつえん)にあたる宮田(みやた)夫妻(ふさい)についての記載(きさい)がありますが、ご夫妻(ふうふ)保存(ほぞん)されていた慧海(えかい)()監修(かんしゅう)絵巻物(えまきもの)によってヒマラヤ踏破(とうは)が「ヤク」をつれて()ったのではなく「ヤギ」をつれて()ったことが(わか)りました。また明治(めいじ)時代(じだい)のことですので、慧海(えかい)()31(さい)当時(とうじ)(1897(ねん))の写真(しゃしん)がほとんどなく、参考(さんこう)資料(しりょう)苦労(くろう)しました。想像(そうぞう)(ぜっ)する海抜(かいばつ)4,000mを()えてのチベット入国(にゅうこく)場面(ばめん)造形化(ぞうけいか)することによって河口(かわぐち)慧海(えかい)()業績(ぎょうせき)(かたち)にしたことが(おも)()されます。

作者(さくしゃ)略歴 りゃくれき

1948 大阪市(おおさかし)()まれる
1971 京都(きょうと)市立(しりつ)芸術(げいじゅつ)大学(だいがく)卒業(そつぎょう)
1972 日本(にほん)芸術(げいじゅつ)メダル協会(きょうかい)加盟(かめい)(JAMA)
大阪(おおさか)彫刻家(ちょうこくか)会議(かいぎ)加盟(かめい)
1974 大阪府(おおさかふ)美術家(びじゅつか)協会(きょうか)結成(けっせい)加盟(かめい)
1983 FIDEM国際(こくさい)芸術(げいじゅつ)メダル大会(たいかい)参加(さんか)(イタリア/フィレンツェ)
1989 フランス芸術(げいじゅつ)メダル研修(けんしゅう)(フランス/パリ造幣局(ぞうへいきょく)メダルクラブ)
国際(こくさい)芸術(げいじゅつ)メダル協会(きょうかい)加盟(かめい)(FIDEM)
1992 FIDEMロンドン大会(たいかい)参加(さんか)
1993 パリ・デュッセルドルフ研修(けんしゅう)(フランス・ドイツ)
2007 山口県(やまぐちけん)下関市(しものせきし)梅光学院(ばいこうがくいん)大学(だいがく)()ども学部(がくぶ)()ども未来(みらい)学科(がっか)教授(きょうじゅ)
河口彗海顕彰立像(かわぐちえかいけんしょうりつぞう)